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香港基本法23条の由来

【明慧ネット】「基本法」は香港の小憲法とも呼ばれ、香港で「一国両制度」というシステムを保障するために、香港特別行政区にのみ有効な法律である。中国と英国政府は1984年、「連合声明」に調印した後、北京は直ちに将来の香港政府が独立して主権を行使できるような法律骨組みを立てるよう仕掛けた。1985年6月、全国人民代表大会は59人の「基本法」を起草する委員会を設立した。当委員会は36名の大陸出身の人と23名の香港人から成る。1988年4月、当委員会は第一次「基本法」を発表し、同時に香港社会の意見を反映するために「基本法」の諮問委員会を設立した。当時のものは現在の第23条と大きく異なっていた。

第一次「基本法」第23条は以下の通りである。

「香港特別行政区は、国家統一を破壊し、中央人民政府を転覆する、いかなる行為をも禁ずるように立法するべきである。」

諮問機関において、諮問委員会は合計73,000の意見を徴集し、そのうち、マスコミ、法律界、政界と立法局の数多くの議員はこの条文の言葉遣いがあまりにも曖昧であり、香港に「反革命罪」と類似した法律をもたらし得る恐れがあり、更に香港人の人権と自由を剥奪する心配があったため、この条文を強烈に非難した。

1989年2月、修正を加えた第二次「基本法」が発表された。

「香港特別行政区は、祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、或は国家機密を盗み取る、いかなる行為をも禁ずるように、独自に立法するべきである」

この第二次では「独自に立法する」という言葉が加わった。すなわち、特別行政区は、必要だと思うときに立法すれば結構であるが、草案に規定した“祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、或は国家機密を盗み取る”などの犯罪行為にはっきりした定義がないため、依然として香港社会に非難されている。

丁度そのとき、北京で天安門事件が発生した。起草委員会の仕事は一時停止してしまったが、数ヵ月後、再開した。諮問委員会は社会各界の意見をまとめ、以下の意見を提出した。

「“祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、国家機密を盗み取る行為”ははっきりした定義がないため濫用されやすい。上述のいくつかの概念を解釈できる者はいるのだろうか?言論・刊行物を発表すると芸術を創作する自由は同様に禁じられるかどうか?“祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、国家機密を盗み取る行為”という概念はあまりにも大雑把である。尚且つ、自由民主と共産専制の国家はこれらの概念に対する解釈において、大きな相違がある。また、この条文の解釈権は中国の人民代表大会の委員が握っている。したがって、“祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、国家機密を盗み取る行為”という概念に対して、具体的な犯罪行為を定めるか、それとも今までの法律をそのまま使うか?さもなければ、この条文は言論と報道の自由を大きく侵害し得る。」

これらの意見があったが、北京政府は天安門事件後、香港へのコントロールを強めなければならないと考えたため、起草委員会はより厳しい「基本法」を定めた。第23条の最終版は以下の通りである。

「香港特別行政区は、祖国を裏切り、国家を分裂し、叛乱を扇動し、或は国家機密を盗み取る、いかなる行為をも禁じ、外国の政治的組織や団体も香港特別区での政治活動を禁じ、香港特別行政区の政治的組織や団体が外国の政治的組織や団体との連繋を禁ずるよう、独自に立法するべきである。」

「基本法」の他の条文と同様に、起草委員会が公衆の第23条への意見を無視した原因は、北京政府が天安門事件で引き起こされた警戒態勢にある。当時の北京の民主運動に対して、香港は大規模の支持を与え、言葉での声援を送っただけでなく、募金で集めたお金を北京の学生にも送った。また、弾圧後、北京政府の武力を行使したことに香港民衆と各団体が厳しく非難を行った。これは、香港が「転覆基地」となり得るという北京政府の心配を深めた。したがって、第23条の範囲が拡大され、起草段階で第23条への非難が無視された。結局、この厳しい最終版が通過され、しかも1990年4月4日、公布された。

香港政府が2002年9月25日から社会に向けて、基本法の第23条に関して意見を聴取し始めた。今回の意見聴取は12月24日に終了する予定である。来年1月にこれらの意見を分析し、二月に法律文書の草案を提出する予定だ。更に7月に北京の支配下にある立法委員に裁決される。