日本明慧


長野県で金子容子さんへの迫害を再現(写真)

 文/日本法輪大法弟子

 【明慧ネット2004年8月16日】

 長野県は山は美しく、水はきれいで、人々は非常に純朴で、善良である。日本人の妻である金子容子さんが中国政府に不法に拘留されたのを知ってから、善良な長野のたくさんの人々は援助の手を差し伸べてくださった。

松本駅 金子容子さんが街頭演説


 2004年8月7日は織姫と彦星の出会う日であり、また長野県各地で行われる伝統的な祭りの日でもある。この日金子容子さんは長野県の中部にあるJR松本駅前で演説を行った。地元の人々が自分を救援するための支持に感謝すると共に、彼女が中国の労働教養所で受けた不法な監禁と一年半に及ぶ悲惨な迫害を紹介した。いつもと違い、今回は労働教養所で発生した残酷刑を再現したことだ。通行人は皆足を止めて、絶えず「これは本当なのか」と尋ねた。最後に容子さんは「真相を知った長野県の人々も私を助けてくださったように、まだ江沢民政権に監禁され、受刑している法輪功学習者たちに対しても救援の手を差し伸べてください」と呼びかけた。

食事を無理やり流し込み、指の爪に釘を差し込む、小さな鉄の牢屋に監禁する 残酷刑紹介

 今回は全部で五つの残酷刑の実演を行った:強制的な食事の注入、手の爪の間に釘を差し込む、小さな牢屋に監禁する、公安ベッドおよび死人ベッドである。金子容子さんは特に彼女の受けた二種の残酷刑を紹介した:死人ベッドおよび公安ベッドである(写真参照)。「私は法輪功の修煉を放棄しないから、私は死人ベッドに縛られたのです。」と述べた金子容子さんは「死人ベッドは木の板でできていて、両側には五本の縄があります。彼らは私をベッドに押し付けてから、五人の大男に力いっぱいで五本の縄で極限まで縛られ、それから私の両手を後ろに引っ張り、手錠でベッドの足の部分にかけた。そのときの私は非常にきつく縛られていて、全然動けません。このように私は連続30時間も縛られていました。その後に私が日本人の妻であることを知ってから、彼らは私の死で国際的な影響をもたらすのを恐れて、それで初めて私を解放したのです。そのときに私はもうすでに息も絶え絶えでした」と述べた。

公安ベッド  死人ベッド


 なぜ「死人ベッド」と呼ぶのでしょうか?金子容子さんは次のように紹介した。「後から人から聞いたのですが、この五本の縄があまりにもきついため、時間が長くなると、縛られた部分の血管が破裂し、内出血するのです。大半の人はおよそ十数時間手から大量出血のために死亡するのです。たくさんの法輪功学習者たちはこのように死人ベッドの上に横たわって死ぬまでに虐待されていたのです。」

 「公安ベッド」の残酷刑を紹介するときに、容子さんはこのように述べた「公安ベッドは一つの鉄のベッドです。彼らは力いっぱいに私の手足を四方に引っ張り、それから手錠、足かせをベッドの縁側にかけたのです。あまりにも強く引っ張られていたため、私はちっとも動けません。彼らが引っ張るときに、私はただ自分の関節のカチカチという音が聞こえてくるのです。非常に痛かったのです。彼らが非常に太いパイプを私の鼻から胃まで入れて、毎日私の胃の中に注射するのです。パイプがあまりにも太かったため、毎回差し込むとき困難を極めました。彼らが便利なように、食事を注ぎ込んでからパイプをそのまま胃の中に残すのです。こうなると、私は横になっているため、中に注ぎ込んだ食事はパイプに沿って逆流し、私の肩、胸、ベッドに流れだしたのです。私は縛られて動きませんが、彼らも拭いたりしないため、暑い日に時間が長くなると、食物は腐敗して異臭を放つようになり、医師、看護士でさえも私に近づこうとしませんでした。下半身は尿管をつなぎ、生理のときには私の下にトイレットペーパーを積むだけでした。私はこのようにベッドの上に二十数日も縛られて、毎日の強制的な食事の注入を除いて、二十数日間誰一人私に近づこうとしませんでした。彼らが私をベッドから出したときに、私の全身は硬直し、動けません。背中の皮膚は腐っていました。長い時間を経てやっと治ったのです。」

 長野県では、人々は平和で、安逸な生活を送っている。人々はまさか遠くない隣の大国で、毎日にこのような残酷な迫害が行われているとは想像も付きませんでした。ある日本人が後に電話の中で「日本人はこのこと(法輪功に対する迫害)についてあまり知らないのです。より多くのこの種の活動を行ってください」と言った。私は演説のその日に、たくさんの観衆の目に驚愕の表情を見た。これが本当に起こったことだと信じることができない。これは本当に、そして常に発生していることだと知ったときに、皆それぞれサインし、迫害の制止を呼びかけた。

真相を知った人々



 ある記者が理解できなくて、容子さんに「普通であれば、このような残酷な刑罰を受けた人間はこの経歴を思い出したくはないはずですが、あなたは世人に伝えるときはどんな風に感じていますか?」と聞いた。

 容子さんはこのように答えた「私は他の人と同じ、もうこの苦痛に満ちた経歴を思い出したくはありません。そのときの私と一緒に監禁された中には他の法輪功学習者もいました。私はある日本人の妻で、法輪功を放棄しないため、彼らはそのように私を虐待していたのです。私は少なくとも四度も死の縁に立ったのです。考えれば分かるように、彼らが中国本土に住む中国法輪功学習者に対してはどれほど残酷なものでしょう。私は非常に幸運でした。日本人の呼びかけの中で、日本政府の救援の下で、生きて日本に戻れたのです。しかし私はまだ迫害を受けている数え切れないほかの学習者を思い出すと、私の心が泣いているのです。私の良知は私に沈黙を保ったままではいけないと告げました。私は自分の経験を通して、より多くの人の良知を喚起し、この迫害を停止するために助けてくれることを願っています」

テレビ局のインタビュー 朝早く真相を知るためにやってきた尊い中国人


 ある中国人が、朝、新聞に挟まれていたチラシを見て、車で30分もかけて真相を知りに来た。彼女は私たちの言ったすべてが本当である事を信じていると言った。彼女の親戚も法輪功を修煉したために監禁され、7年も処せられた。彼女は非常に法輪功を支持していが、しかし私たちがこのようにやるのは政治への参加だと感じた。学習者たちは辛抱強く彼女に私たちは政治に参与しない。私たちはただこの迫害に反対しているだけだと伝えた。彼女は電話番号を残して、また私たちと連絡を取りたいといった。

 私たちおよび全世界の良知のある善良な人々と一緒に、「この迫害を停止するように!法輪功の素晴らしさを全世界に伝えるように」と呼びかけましょう。

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 背景の紹介

 金子容子さん、39歳。中国籍。中国名はラ容。黒龍江省鶏西市の人。1999年に日本人と結婚して来日、今は新潟県に在住。

 2002年5月24日、北京で通行人に法輪功真相宣伝ビラを配ったため、中国警察に逮捕され、そして一年半の労働教養を強制された。容子さんが監禁されている間に、その夫、親友および法輪功の同修たちは常に彼女を救援するために努めていた。東京では容子救援会を開き、大阪でも市民支援ネット連絡会を開いた。日本各地および国際ネット上でも救援署名を募り、記者会見も開いた。容子救援会は容子さんの居住する新潟県でも数回にわたってSOS緊急救援徒歩署名活動を開いた。

 2002年7月29日に、自民、民主、自由、保守の四政党の21名の国会議員たちは東京で容子救援の超党派議員連盟を立ち上げた。2003年11月に、救援活動はすでに16万以上もの署名を集め、日本国会から各市、町、村の270名の議員の支持を得た。

 世界各国政府、人権組織、団体および個人がそれぞれ日本政府に救援を呼びかける手紙を出した。あるいは直接に中国政府にすぐに監禁されている法輪功学習者を釈放するように呼びかけた。

 日本政府はあらゆる場面で、全力で容子さんを救援することを表し、その中で2003年11月18日に金子容子さんが不法の労働教養期間満了の際に、川口外相は日本政府が金子容子さんを日本人同等とみなすことを表明した。

 2003年11月27日、各界の強力な呼びかけの下で、金子容子さんは順調に日本に帰った。江沢民政権に監禁される548の日々の中に、容子さんは非人道的な虐待を受け、少なくとも四度死の淵をさまよい、髪の毛は全部白くなり、失明しそうになっていた。それでも強靭な正念で容子さんはくぐりぬけた。

 この自由な社会に戻った容子さんは、不法に労働教養所に監禁されているたくさんの法輪功学習者のことを忘れていなかった。彼女は日本各地を奔走し、自分の経験を世人に告げ、この邪悪で、残酷非道な迫害を世人につたえ、善良な世人に力を合わせてこの迫害を制止するようにと呼びかけた。

 今回の実演された残酷刑は容子さんが受けた迫害のほんの一部にすぎない。




(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/16/81910p.html