無私になり尽くして 自分の使命を果たす
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年6月9日】本文では、自分が着実に修煉してきた体験を皆さんと交流したいと思います。適切でない箇所があれば、ご指摘をお願いします。

 一、大法の中で再び新たに生命が与えられる

 多くの同修は法を得た初期の頃に、よく事故や交通事故に遭って、生死に関わる大きな難による試練を経験しますが、私にはこれまでそんなことがありませんでした。学法煉功をする中で、体質の変化を感じるだけで、在り来たりの些細な出来事の中で、身体が変化してきただけでした。しかし思わぬことに、この数年後に、突然大きな試練に遭いました。

 ある日、大変不思議なことが起こりました。仕事で部品を簡単に研削(けんさく・研磨と同じこと)しようとして、大型研削盤は使いたくないので大型研削用の砥石(といし)を小さい電動鋸(のこぎり)に設置し、これで保護された鉄を取り除こうと思い、最高までロックしてから、3000回/分に設定しました。こうすれば危険なことは知っていたので、簡単な保護装置の中に入れて、地面にしゃがみ込んで操作を開始しました。作動を始めた瞬間から制御できなくなり、どうしたらよいか分からないまま、巨大な音が鳴り響き、ある反動で私は地面に叩きつけられました。

 数秒後、私はやっと激痛の中で目が覚めることができ、心の中で自分はきっと大丈夫だと思いました。同僚が走って来て、大変驚きました。事故で私が死んだと思ったようです。後で同僚から聞いた話では、その時の私の顔は死んだように蒼白だったと聞きました。私は「大法の師父が守って下さるので、大丈夫」と苦しみの中で言いました。全く起き上がることができず、木製のベッドに運ばれた後、横になったまま動けなくなりました。

 これまでにも、砥石が破裂して人が命を落とす事故はよくあることで、脳漿(のうしょう・脳室=脳の内部の空間を満たす液)が飛び散ったり、骨が粉々に打ち砕かれたりする事故がありました。しかし、今回の事故は非常に不思議でした。現場で見たものは側面の保護板は細かい小片で打ち抜かれ、固定板の鉄のねじは無理に引っ張られて切断されており、投げ出された破片の力がどれほど大きかったかよく分かりました。しかし、木の板はそれでも保護作用を果たし、砥石を板に挟んでいました。ところが正面の質の悪い保護板の内側にちょうど広い隙間があり、両面の薄片に塞(ふさ)がっていて見えませんでした。大型研削砥石はちょうどこの隙間から出て、最も致命的な睾丸の方へ向いていました。このような多くの偶然が重なり、助かりました。明らかに命を失う大事故でしたが、私が大法を修煉していたお蔭で無事でした。常人なら間違いなく、死んでいます。しかし私は助かり、服も破れていませんでした。忍び難い痛みの中で、すぐに自分の執着と漏れを探すと、少しは動けるようになり、痛みに耐えながら煉功し、師父の説法を聞きました。すると翌日には完全に痛みもなくなり、元の身体に戻りました。

 師父は次のようにおっしゃいました。「ぶつけられて大した怪我はなかったと思うかもしれませんが、実は一人のあなたが本当に死んだのです。それは業力で構成されたあなたです。しかもその身体にはあなたの良くない業力で構成された考えや心臓、四肢があり、ぶつけられて死んでしまったのは、全て業力で構成されたものです。私たちはあなたのためにこんなに良い事をし、これほど大きな業力を取り除いて命の償いをしたのです。このようなことをする人は他にいません。あなたが修煉できるから、私たちはこうしてあげたのです。皆さんがそれを分かった時、私に感謝する方法はありません」[1]

 それ以後、私は自分の生命は師父によって再び新しく造られ、大法の中に属し、自分の私的な範囲内に属さないことが分かりました。それに加え、多くの執着がなくなり、二度と修煉を怠けなくなりました。

 二、無私になり尽くして、良性な循環を作る

 迫害の中で生活の収入源がなくなり、私は専任で大法を実証し始めましたが、この道は長く続けられないとすぐに分かりました。裸一貫で事業を起こし、数十万元を借りましたが全てなくしました。逃げたいという思いが数回一瞬浮かびました。また以前、ある占い師から私は一生貧乏であると言われました。しかし最終的には、これらの思いを全て捨てました。大法がこの私を正せないはずはないと思い直しました。以前、毎回お金を失う前に、いつも様々なヒントを得ました。しかしそれを悟らず、間違いを固守して起こったことです。その後、私は完全に修煉しているという気持ちで仕事をし、各段階毎に修煉の一環として、学法の中から実践へのヒントを見つけ出しました。すべては悟りませんでしたが、しかし、大事な時はいつも発正念をし、座禅をし、静かに考え、あるいは夢の中で霊感をもらい、大法と対照してやってきました。それは師父からのヒントであり、邪悪でないことが分かり、どうすべきかが分かるようになりました。不景気の中で意外にも、とても早く苦境から脱することが出来ました。

 私は次のように悟りました。人間世界に来て師父を助けて法を正し、神が先史にした誓いは、法のために全てを尽くし、主なモノは自分に残し、残りを大法に使うのではなく、私の生命は大法によって再び新しく与えられたのだから、黒字が出すと、まずは大法のために使い、家も車も買わず、質素で簡素な生活を続けました。

 師父ははっきりと次のように示されました。「きわめて高い次元まで修煉して、功を開き悟りを開くようになった時、功がきわめて高いことは確かです。しかし、功を開き悟りを開く直前の瞬間になって、その人の功の八割がその人の心性の基準と共にもぎ取られてしまいます。そのエネルギーを用いてその人自身の世界を充実させるのです」[2]

 交流の中で、私は今8割を出すことができると悟りました。悟ったら実践する、そして、さらに大きな範囲の修煉は師父が圓容して下さるのです。私が次々と数個の大法のプロジェクトのために40万元(約636万円)寄付した時に、私は心から身軽さを感じました。経済上また原点に戻り、一からの出直しに過ぎません。この間、思わぬことに不景気の荒波の中で、一度破産しそうになりました。この打撃でさえ、私の正法を信じる心を揺るがすことが出来ませんでした。正しく歩む限り、師父の按排は必ず最も良く、困難は一時的な試練に過ぎないと固く信じることができました。一番困難な時期に、師父からヒントを頂き、競争を避けて他の道を切り開き、3年も経たない内に利潤は以前の2倍になり、自動的に良い循環を作り上げました。

 三、形式にこだわらず、学法して道を悟る

 以前、私は働きながら師父の説法の録音をよく聞きました。その後、同修からそれは不敬であると言われ、やめました。一時期、仕事が忙しくて学法する時間がなく、仕事も進展が遅くて悪循環に陥りました。引き渡し期日があまりにも迫り、仕方なく法を聞きながら仕事をしました。常に集中はできませんでしたが、それでも一部は耳に入ってくるからです。

 このようにして十数回聞いていると、ある時、師父が先史文化について話されるのをもう一度聞いた時、豁然(かつぜん・ 視野が大きく開けるさま)として心身が一気に貫かれたように感じ、高次元の法理がわかりました。その瞬間、先史文化は上から下へ各次元を貫き、最高の大穹の体系で、ひいてはそれ以外にも異なる次元の先史文化があり、人間は先史の輪廻のことが分からず、佛法の根本が何であるか分からず、高い次元では各次元の衆生は、宇宙にさらに高い最終的な法である「真・善・忍」がありますが、大法の存在を知りません。そして、異なる次元の先史文化は異なる次元の生命を啓発し、彼らを助けて大法を認識させ、大法に同化させるということが分かりました。

 法の中に溶け込んだ心持ちがして、仕事も予想外にうまくいき、常人からも称賛が相次ぎました。

 師父は次のようにおっしゃいました。「皆さんは異なる次元で修煉していますが、将来次元が向上してから、この録音を聞いても、さらに向上することができます。繰り返し聞けば、いつも新しい理解、新しい収穫があり、本を読めばなおさらそうです」[2]

 今私は次のように理解しました。最も良い方式は自分で本を読んで法を悟ることですが、師父は説法で「なおさら」を付け加えられました。以前、確かに心を静めて法を読むと、とても多くの法理を悟ることができました。しかし、時間がとても限られている状況下では、自分を縛ってはいけません。師父はここで「繰り返し聞けば」とおっしゃっており、如何なる形式をも規定されていません。たくさん学んでたくさん聞いて、形式にこだわらず、限られた時間を見つけて学法をすればよいと私は理解しました。このようにすれば、師と法を敬うことは形式上でも反映されるばかりでなく、実質的に心を尽くすことにおいてはなおさらそうです。

 四、自分を放下することは成功の前提

 当初、立派に仕事を成し遂げたり、あるいは大法の仕事をよく行なったりする度に、心に少し自慢が生じ、自分はなかなかいけると思いました。深く学法するにつれて、この自慢する心は一種の恐ろしい魔が侵入してきたことと同じで、必ず根絶すべきであると認識しました。一抹(いちまつ・ほんの少し)の自負を常人の中では自信と混同し、大したものではないと思い込みますが、高次元では純粋で厳しく、この一抹の魔性が修煉を縛って上がれなくし、これが膨らむと下へ落ちる一方なのです。

 古代では純粋な修煉者は修行の一歩ずつの成功を、自分たちが信仰している神への賜物としました。このことから逸脱して、自我(自慢しようとする心)が肥大すれば必ず魔道に入ります。実は常人の全ての成功も、神が決定した要素であり、多くの常人は成功を収めた後、神に感謝の気持ちを抱きますが、これこそが正念です。後の人は「信仰の精神的束縛」を打破しようと「人本主義」(訳注:人間とその生活の問題を基本にすえる思想)を喧伝し、正に魔に動かされ、人の神性から背離し、本性を迷わせてしまいました。

 師父は私達に「修は己にありて、功は師にあり」[2]  と数回教えられました。私は「功」は私達が煉って出てきた「功」をいい、この基本的な意味以外に「成功」という意味もあると理解しました。修煉と大法の仕事をして得た全ての成功と最終的な成功を含んでいると思います。

 着実に修煉する中で絶えず感じましたが、巨大な人生の災難、経営難、技術革新、学術上の難題の前で、人間の聡明さは何ものでもなく、いつも師父のヒントと啓示を得て迅速に突破したもので、自分の成功は修煉の表現形式にすぎません。この一点をはっきり認識し、良くない心と外部からの妨害を徹底的に除去してこそ、自分を放下し、自分を超越することができるのではないでしょうか。そうでなければ、旧宇宙の低次元の標準にも達することができず、師を助けて法を正す使命は大いに減らされることでしょう。

 五、先史の誓いと使命

 自分の先史の誓いと使命は具体的に何であるか? 正しい道を歩む限り、各段階毎の初期には知らなかったとしても、しかし、その過程では感じることができ、この段階が過ぎて使命をよく果たせたかどうかに関わらず、次の段階が始まり、また暫く混乱があり、各種の選択に臨むことになると私は感じました。

 迫害が始まった初期の頃、刑務所に拘禁されていた時、室内に大勢の受刑者達がいるのを見て、意外にも私の第一印象は、この人達の皆が私の子供のように思えました。私に向かってきた様々な視線の中には、冷たい視線も少なくありませんでしたが、私は全てどこかで会ったことがあるように親しみを感じました。いかなる前世からの因縁も見ることはできませんが、心から歴史のきめ細かい按排を感じました。間違いなく、彼らにも心から大法の素晴らしさを認めてもらうことが、ここでの私の使命でした。慈悲の心と不憫に思う心が重なり、何も分かっていない子供に対するように彼らに接し、どんな悪人も凶悪になれず、皆が大法の善の力によって感化され、変わっていきました。

 このような平坦な修煉過程でも、同じく衆生を救い済度し、法を実証する使命を履行するのです。しかし、ある人は平坦で些細なことを行なわず、大きなことをやることを第一位にし、実質的な法輪功真相伝えや、人を救うことを軽視し、大きくやればやるほど、結局は、むしろ大いにつまずくことになります。

 師父は私達に次のように教えられました。「常に法にのっとり、絶えず自分の修煉を緩めていなければ、行なったすべてのことは本当に修煉者が行なっていることになります。それは大法弟子の使命を完成させるための根本であり、根本的な保証なのです」[3]

 私は次のように理解しました。自分の使命は何だろうか? 師父だけが知っておられ、師父の按排は必ず弟子に最も良いものを成就させます。ですから頑張ってよく行ない、やってきた事をよくするために心と力を尽くせば、必ず使命に対して恥ずかしくないでしょう。

 この前、私はまた難しい選択に直面しました。ある放棄されたプロジェクトを引き継ぐべきかどうか、です。 多くの同修は私がやることに反対しました。理由は時間的に厳しく、難度が高く、あなたが3~4年かけても出来上がらずに終わる可能性もあり、また、何とかなったとしても使えるかどうか分からず、使えるようになったとしても効果があるかは分からず、最後のこの時期にこんなに遠回りして、帰って行くことが出来ますか、ということでした。

 繰り返し学法して、私は次のように理解しました。このプロジェクトは良くすれば確かに多くの人を救うことができ、もし私がやらなければ徹底的に廃棄することになります。このプロジェクトが誰の使命であるか知りませんが、廃棄した後、対応する宇宙大穹の体系も危なくなるでしょう。私が身代わりになって補って、失敗すれば私個人の損失になりますが、しかし一旦成功すれば、皆が大いに喜ぶことであり、なぜ自分の得失を徹底的に放下して、試してみないのでしょうか、と思いました。

 そこで私は大体の計画を立てただけで、無理やり始めました。やっていく過程で、協力してくれるチームに出会ったばかりでなく、一部の助けてくれる同修にも出会い、技術力と能力が向上しました。一度道を外れた時に、師父は「壁に突き当たる」方式で私達に修正させました。今はほぼ規模が整い、すでに続けて人を救う作用をもたらしました。完全に作用を発揮し、この使命を完全に成し遂げるには、未だにとても長い道のりがあり、さらに純正な修煉と全体の協力が必要です。

 この段階を一歩ずつ修めてきて、振り返って再び見ると技術的にも学術的にも、一つずつ繋げられた全体の枠はより高くて深く、人の考えを遥かに超え、歴史的な智慧も超え、それは全て師父の按排で、私達は表面を修めるに過ぎません。

 師父は次のようにおっしゃいました。「つまり、皆さんが行った全ては、どんな小さなことをも含めて、皆自分自身のために行ったのであって、大法のために行ったこともなければ、師父である私のために行ったこともありません」[4]

 本当に自我を放下し、本当に尽くし、本当に大法に照らして行なえば、修煉においても、プロジェクトにおいても、実質的な効果においても、すぐに変化が現れるばかりでなく、個人の環境もすぐに良くなります。師父は弟子に最も良い道を按排されたので、私達はどのように出来るだけ早く、そこまで修めるかだけなのです。

 以上は個人の認識ですので、不足がありましたら、ご指摘をお願いします。 

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク座談会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/15/383811.html)
 
関連文章