坐禅するとき ある理を悟った
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文/中国の若い大法弟子

 【明慧日本2020年8月11日】昨晩、私は坐禅している時に突然、ある道理を悟りましたのでここで書き出して、皆さんと交流したいと思います。適当でないところがあれば、同修の指摘をお願いします。

 昨晩、坐禅する前に私は「坐禅する時に足が痛いなら、どうして入静できるのか?」と考えました。私は坐禅する時にいつも足が痛くて痛くて、今まで入静したことがありませんでした。私は心の中で師父に「師父、坐禅する時、入静とはどういう状態なのですか? 弟子に体験させてください」とお願いしました。。そのあとに私は坐禅を始め、手印の動作を行ない終えると、すぐにある状態に入りました。自分の身体が大きくなったと感じ、元神は縮んで、自分の頭の中の前額のあたりにぴたりと張り付いていました。師父が『轉法輪』の中で説かれているように「そこに坐ると、自分が卵の殻の中に坐っているかのような素晴らしさ、非常にいい気持ちを感じ、自分が煉功していると分かっていますが、全身が動けないかのように感じる、こういう状態が現われます」。私はこの状態を正に体験しました。そして。それは確かに素晴らしいものでした。

 しばらく経つと、師父の号令を聞きながら、柱状神通を加持する動作に変わったその時、私はそんなに坐禅していないのに時間が経つのが本当に早いと感じました。深く入定していくまで、坐禅する時の音楽は1フレーズごとに静かに流れていき、1フレーズの音楽の終わり頃になると、いつもそのフレーズの独特の音色があります。毎回これを聞く度に、もうそろそろ終わりだろうか、と思います。しかし、音楽は流れ続けて次の段階に入ります。そして、本当に坐禅の最後の時間を長く長く感じてしまい、自信もなくなっていきます。

 坐禅する時、私は後どのくらいの時間が残っているのだろうかと、いつも気になって時計を見てしまいます。今回、時計を見ようと思った時に、師父の説かれた『二〇一八年ワシントンDCでの説法』が私の頭の中に浮かびました。師父は「私はいつも言っていますが、実は修煉にとって最も苦しいことは(師父が笑って)長い歳月のことです。錬磨の中で長い歳月が流れています。先が見えず、終わりが見えない、(師父が笑って)実はこれが最も苦しいことです」と説かれました。

 私は悟りました。終わりが見えないことですが、坐禅もこれと同じではないでしょうか。私はどうして時間を見ようとするのでしょうか? それは執着ではないでしょうか? あの辛い足の痛みはまるで苦しみに耐えている大法弟子のようです。様々な予言や世界の形勢の変化はまるで一段の煉功音楽の終わり頃になると、人々に終わりの希望を与えていますが、しかし、木魚の音はこの希望を打ち破って、次の一段の音楽へと移ります。自分がこの苦痛をもうしばらく耐え、坐禅を堅持できるかどうか、後どのくらいの時間が残っているか分からない中で、自分のやり遂げる意志の強さと忍耐力が試されています。修煉者はこの貴重な坐禅の時間の中で、修煉者として行なうべきことを、どうやってしっかりと行ない終えるか考えるべきです。これは決して、終わりの時間への執着ではありません。

 ここまで考えてくると私の心はもう動揺せず、音楽が終わりに近づいたかどうかも気にせず、煉功を始めたときの心理状態を保ち、次の音楽があるかどうかさえも考えず、期待さえもしませんでした。するとその後の一段一段の終わりの音色は、そんなに特別なものに感じなくなりました。穏やかな心理状態を保ったままで坐禅が終わりました。そして、両手を合掌し、出定しました。煉功を終えたあと、私はこのような心理状態は師父の説かれた「初志貫徹」だと思いました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/8/383557.html)
 
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