同修と食事をして 自身の執着を再確認する
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2020年9月30日】私は子供の頃から飲食の面で潔癖症があり、自分の子供が食べ残したものも含めて、人が残したものは絶対に食べませんでした。夏場、食べ物の中に小さい虫などが入っていたら、私は空腹でも食べないほうがいいのです。他の人が米虫(コクゾウ虫)を見つけ、拾い出してから食べるのを見ると、「何でこんなものを食べるんだろう」と思ってしまいます。家でも祖母と一緒に食事をする時、祖母が触った饅頭は、私は嫌で必ず皮を剥がして食べていました。

 このようなきれい好きを私は良いとは思っていませんが、別に悪いことだとも思っていません。同修からは「そのきれい好きは直した方がいいですよ」と言われますが、私はそのように思わないし、深く考えたこともありませんでした。

 ある時、同修と一緒に仕事を終え、昼過ぎだったので、3人でファストフード店に行きました。それぞれがご飯と野菜炒めを食べ、みんなは食べ終わってしまい、私だけがまだ食べていました。いくら食べても食べ切れないので、胡瓜や人参、ご飯を少し残し、「もう食べられない」と言うと、同修のAさんは 「女の子は小食だからね。これだけなのに持ち帰るのもね」と言いながら、私の食べ残しを自分のお皿に移し、全部食べてしまいました。

 私はAさんのこの行動に圧倒され、どうしたらいいか分からなくなりました。Aさんが一粒も残さずお皿の食物を食べ尽くすのを私は見たのです。私は逆に自分をみて、何とも言いようのない気分になりました。私はAさんのことをあまり詳しく知らないし、まだ数回しか会ったことがありませんが、Aさんは大都会の出身で上品で清潔感があります。これを目にして「他人は汚い、嫌だと思うこの心を取り除くべき時がきたのではないか?!」と思いました。

 この考えは私の頭の中にずっとあり、家に帰って別の同修とその話をすると、同修は「明慧ネットに掲載された『師恩を讃える』という文章を覚えている?  同修たちと師父がホテルで食事をされた時、数人の同修の食べ残しがあったため、師父は同修たちの残り物を全て自分の器に流し込み、食べられたことがありました…」と言いました。聞いているうちに私は急に悲しくなり、涙で物がかすんでしまいました。師父は『轉法輪』の中で「カチカチに凍った馬糞をも美味しそうに食べ、常人が覚めた状態では耐えられないような苦しみを嘗めていました」と説かれています。

 汚いことへの恐怖も一種の苦しみであり、三界自体が最も汚い場所であり、誰もきれいな人はいないのです。長い間、ずっとこのきれい好きな心を持っていたいと思っていた私は、やっとこの心は取り除くべきだと悟りました。しかし、この心を放下する時、苦しみも感じるのです。師父は弟子たちに「執着が一つも漏れることなく修める」[1]と要求されています。しかし、私は「きれい好きは悪いことではない」という口実で自分の執着心を覆い隠していました。このような小さな、小さな執着心は修めなくてもいいと思っていたので、今この心を取り除こうと思った時、はじめてこんなにも苦しく、これは小さな執着ではないと感じました。

 師父に感謝いたします。 同修の皆さんに私感謝いたします。私の長年の執着心を発見させてくださいました。私はこの執着心を修煉して必ず取り除かなければなりません!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/4/16/307543.html)
 
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