正しい教訓と間違った教訓について
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年9月30日】師父は説法の中で、正しい教訓と間違った教訓の問題について繰り返し説かれています。師父は「歴史上の正しい教訓は永遠に人々を戒められないもので、かえって人間はいつも自らの利益のために反面の教訓を引用し、戒めとしています」 [1]と説かれました。

 では、正しい教訓とは何でしょうか?  間違った教訓とは何でしょうか?  正しい教訓とは正しくて積極的であり、間違った教訓とは否定的で、消極的なのです、諺にもあるように 「人は聖人でも賢人でもない、誰が間違いを犯さない事ができようか」という、 人は何かで失敗したりすると、そこから教訓を得ますが、正しい教訓を汲み取る人もいれば、間違った教訓を汲み取る人もいます。

 正しい教訓を汲み取ることだけが悔い改めの現れであり、間違った教訓を汲み取るなら、向上できないことになります。中国共産党には腐敗した高官が多く、1人を逮捕すれば、その人の周りの人達も逮捕されることが多いのは周知の事実ですが、しかし、すり抜ける者もいます。中には「捕まっても運が悪かった」と思う人がいれば、また「自分の手段が不十分だからトラブルに巻き込まれた」と思っている人もいます。どうして間違ったのかを汲み取ることしか考えていません。一般的に間違った教訓を汲み取った結果、汚職はより微妙な手段で繰り返され、止めることができないのです。

 修煉者として、常人のようにいつも間違った教訓を汲み取ると、向上できません。

 師父は「しかし、転んだら正しい教訓を汲み取り、いつも間違った教訓を汲み取らないようにしてほしいのです。間違った教訓を汲み取るとは、人心で物事を考え、自分をずる賢くし、丸くしてしまえば、悪くなったのです。悪い人とは何かについて話したことがあるでしょう。ずる賢い人は悪い人です。優しくて、複雑な考えのない人が良い人です。正しい角度から物事を考えるべきであり、転んだら「私のどこが間違ったのか」と修煉者の角度から原因を探すべきです。法をもって量ってはじめて、正しい教訓を汲み取ることができ、本当にこのように行なっていれば、きっと良くなります。皆このように行なっていれば、プロジェクトが良くならないはずがありません。つまり、内に向けて見ておらず、正しい角度から教訓を汲み取っておらず、つまり大法弟子のように問題を話し合っていないということです」 [2]と説かれました。

 修煉の中で、邪悪に連行されたり、妨害されたりなどの問題が発生したとき、精進している大法弟子の一念は、多くの場合、まず自分の欠点を見つけ、どこに漏れがあり、大法の要求に符号しているかどうかを見て、それを直します、次の機会でよく行おうと決意することです。このようにして初めて、向上していくことができ、それこそ修煉者にとって正しい悟りだと思います。しかし、修煉者の中には、人当たりがよくなかったり、大人しすぎたり、警官を騙す方法がわからなかったり、警官を騙してもう修煉しないと言い、家に戻ってきたらいつものように修煉すればいいじゃないですか? といろいろ考える人もいます。これが間違った教訓を汲み取るという心理状態であり、時間が経つにつれてどんどん狡猾になっていき、邪な悟りに至る人がいれば、さらには大法の反対側にいってしまった人もいます、その教訓は悲惨なものがあります。

 一部の人は恐れる心が多く、長期的に外で法輪功迫害の実態を伝えることができず、同修が警官に連行されたり妨害されたりしたと聞くと、自分は何の問題も起こらなくてよかったと喜ばしく思いました。家にいて外に出ないことが正解だとまで思ってしまいます。実はこれは、間違った教訓を汲み取ることの現れでもあります。しかし、真に修める大法弟子なら、自分はどこに問題があるのかを見抜き、気づいたときにはそれを改め、執着を取り除いていくのです。これを言い訳にして、法を実証することをやめて、法輪功迫害の実態も伝えなくなりました。これが正しい教訓を汲み取るか、間違った教訓を汲み取るかの違いです。

 私たちの修煉の目的は、次元を向上し、最終的には圓満成就に達し、天界に戻ることです。しかし、大法の中で常に間違った教訓から学ばなければ、決して向上することはありません。修煉する時間も残り少なくなってきたので、一刻も早く目覚めてほしいのです。本当に大法の要求どうりにやり遂げることができればそれは修煉です。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛法と佛教」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/26/412188.html)
 
関連文章