「愉しみながら死んでいく」
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年10月3日】『愉しみながら死んでいく』という書籍は、世界で30年間ベストセラーとなった本です。著者ニール・ポストマン氏は本の中である問題について警鐘を鳴らしています。つまり、私たちは現代設備で作った喜びに溺れて、自ら脱却できず、また我々に重要な思考力を失わせるだけでなく、人類の文化を消滅させかねないというのです。

 この本のあらすじは伝統的な読書を通じて、人間は厳粛な、理性的な考え方を形成することができます。読書を通じて人間の視野が広がり、知識が増え、知恵と論理的分析力が豊かになり、理性的な判断力も高められます。

 しかし、テレビと映画が世に出るにつれて、断片化された情報は理性のある社会を打ち破りました。人々が接触したこれらの情報が、論理的な思考をもたらさず、実際の行動に何の影響も与えない時、これらの情報に残った唯一の用途は喜びと娯楽です。テレビの天職は喜びを作ることで、視聴者は頭を使わずに喜びを得られます。

 もし一つの時代が厳粛な公共生活を捨て、ドラマ、バラエティー番組、スターのゴシップ報道に繰り返して消耗していくならば、彼らの文化はすでに危険に曝され、災難からは逃れられないでしょう。

 愉しみながら死んでいくという時代では、人類を滅ぼすのは、人間ではなく、娯楽かもしれません。

 この本の紹介を読んで、感慨無量の気持ちになりました。適切な娯楽はストレスを解消でき、気持ちをリラックスできます。しかし、修煉者がもし娯楽に溺れたなら、修煉、返本帰真、自分の誓約を放棄することになり、邪道の末路を辿ることになります。

 現在、修煉者には、学法をしながらドラマを見たり、ゲームをしたり、マージャンをしたり、美容に走ったり、美食を研究したり、鶏やアヒルを飼ったり、植物を育てるなど、どんな修煉者もいます。彼らは思い切って常人の生活を楽しんでおり、貴重な修煉時間を無駄に費やしています。娯楽の時間が多ければ多いほど、遊びたい心がますます強くなり、修煉する志がますます弱くなります。

 自分の修煉状態について、十分な理由を持って発言する人もいます。ある同修はマージャン屋で見つけられると「法を読み終わったばかりで、真相シールも貼りました」と言いました。つまり、私は任務を終えたので、休憩タイムだという意味です。探しに行った同修はあきれて返す言葉もありませんでした。修煉は自己責任で、自分に厳しく要求すべきです。ある人は毎日1時間大法の書籍を読んで、真相シールを一枚張れば修煉していると思っており、残りの時間はリラックスした生活を楽しむべきだと思っています。これは上面だけで、精進し着実に修煉しているとは言えません。多くの同修は食事と睡眠の時間をさいて三つのことをしています。迫害によって刑務所にいる同修は死の床に縛られても、まだ法を暗唱しています。比べてみると、毎日のんびりしている私たちは顔向けできるでしょうか? 私たちは師父の弟子になる資格はあるのでしょうか?

 ある同修はいつも小説を読んでおり、布団の中でこっそり読んでいました。後に逮捕されて重刑を言い渡されました。またある大学の先生は70歳以上であるにも関わらず、ゲームに夢中になり、修煉を緩め、がんを患い、一年後に亡くなりました。さらにある同修は迫害によって刑務所に入れられ、出てからは田舎に隠れて気晴らしに多くの鶏やアヒルを飼っています。

 師父は「修煉と法を正すことは厳粛なことで、この時期を大切にできるかどうか、ということは、実は、自らに対して責任を負えるかどうかのことになります。この時期は長くありませんが、異なる次元の偉大なる覚者、佛、道、神、そして異なる次元の主の威徳を鍛え煉りあげることのできる時期であると同時に、自らをゆるめた修煉者を、すでにいる非常に高い次元から、あっと言う間に駄目にしてしまう時期でもあります」 [1]と仰っています。

 ある同修が北京に行く道中で、車の外に神仏がご一緒してくださり、北京に行かれる姿を見ました。同修は天安門広場で横断幕を正々堂々と掲げていました。彼女はトップクラスでテストに合格した夢を見たことがあり、彼女の未来の果位を示しているのかもしれません。しかし後に、同修は養生を重視し始め、テレビを見たり、健康食品を食べたり、食べることや遊ぶことの享受に走ってしまい、終いには学法もせず、人を救い済度することも行わなくなりました。娯楽は人の執着心、欲望、魔性を増大し、精進する修煉者を常人に引き戻します。かつて健康で元気だった同修は現在、病魔に取りつかれています。

このような同修は角度を変えて考えてみてください。今は正法の正念場で、衆生の存亡に関わる非常時期で、神々が注視されています。私たちは師が法を正すことを手伝わず、毎日鶏のエサ作りに励み、鶏の糞を片づけたり、卵を拾ったり、鶏を飼って楽しんだり、あるいは夜通しマージャンをしたり、小説を読んだり、オンラインゲームをしたり、ドラマを視聴したりしていて、悲しくはないですか? これは神の道を歩んでいると言えるのですか? これは真剣に佛を修めていると言えるのですか? これは師が法を正すことを手伝っていると言えるのですか? このような生命は大法に済度される資格がありますか? 未来の宇宙の王になれますか? 修煉は逆水を行く舟の如し、前進しなければ流されるのみです。勇猛精進する上士でなければ、中途半端な中士になるしかありません。

 娯楽にはプレッシャーがなく、気楽で自由自在で、のんびりできて苦労しなくてよく、心が苦しくなるまで内に向けて自分を探さなくてもよく、危険を冒して真相を伝えに行かなくてもよいのです。そのため、ある同修は、始めはリラックスしたい気持ちが少しだけあったのですが、遊べば遊ぶほど遊びたくなり、最後には病みつきになり、自力で抜け出せなくなり、完全に娯楽の虜になってしまい制御できなくなりました。薬物使用と同じです。実は過度の娯楽自体は旧勢力の按排で、魔性に満ちたものです。その目的は修煉者を破滅させるためです。

 師父はこのように仰っています。「現代人が行動様式の良し悪しを区別できないとき、それはあなたの考えが負の要素によって制御されているからです。表面から見ればあなたの行為に何の違和感もなく、あなたは自分の考えが自然に生じたものとさえ感じています。あなたは自分で考えたものと、外来の要素によって制御され生じたものを区別することができず、欲望の赴くままに走らされたのです。それらのものはあなたの好みに合わせてあなたの興味を引き立てています。このような環境での修煉はあまりに難しいのです。とても難しいのです」 [2]。

 人間は食べれば食べるほど食欲が強まり、寝れば寝るほど怠けてしまい、楽になればなるほど楽を求めます。私たちは遊びに走っているとき、安逸と放任を求めているのに等しく、魔性を強めているのと同じです。師父がこのように仰いました。「何を求めるかはあなた自身が決めることですが、常人には、みな魔性と佛性があって、考えにずれが生じれば、魔性がただちに作用するのです」 [3]。修煉においては「愉しみながら死んでいく」というのは絶対に大げさな言葉ではなく、刻一刻と現れる修煉者に対する試練です。師父は「緩めはしない」 [4]と繰り返して強調されています。時々刻々と精進しているのが、真に緩んでいないと言えます。

 師父はこのように仰っています。「在席している一部の学習者は、私に分かっていますが、精進しておらず、人によっては非常に精進していない学習者がいます。しかし師父はいつも、あなたはどうしたらいいのでしょうか、なぜ正念がないのでしょうか、師父はあなたを救いに来たのではありませんか、この法は皆さんを救いに来たのではありませんか、しかも、あなたはほかの人を救うという責務をも持っているのに、自分自身がしっかり行なっていなければ、どのようにすればいいのかと考えています。自分が神と交わした誓約を果たさなければ、結末はあなたが誓約の中ですでに決めたのです」 [5]。

 したがって、私たちは娯楽のためにではなく、修煉するために、享受のためにではなく、衆生を救い済度するために生まれました。この点についてはっきりと分からなければなりません。修煉するにあたって、時々刻々と自分を厳しく律し、困難に遭っても恐れずに前進し、逃げ出してはいけません。

 明慧ネットで発表された『安逸と壊滅に陥ることなく終始精進する』『現代の三大魔を警戒すべき』『一刻を惜しむ』などの文章はとても素晴らしいです。皆さんにはこのような安逸心を警戒する文章をよく読んで欲しいです。緩めずに精進し続ければ、圓満成就できます。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」
 [2]李洪志師父の経文:『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
 [3]李洪志師父の著作:『精進要旨』「法定」
 [4]李洪志師父の著作:『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』 
 [5]李洪志師父の経文:『二〇一三年米国西部国際法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/31/409780.html)
 
関連文章