体調が悪いと感じたときの正念の在り方を考えてみる
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 文/山東省の大法弟子 

 【明慧日本2020年10月3日】先日から私の膝が突然調子が悪くなり、手で押すと痛みがありました。そして痛みが数日間続き、発正念をしても好転しなかったので、「これは関節炎ではないのか? この頃クーラーをつけっぱなしなので、そのせいかな?」と、良くない念が出てきました。その時、夫が以前使ってとても効果が良かった薬用パッチが目に付いたので、一瞬「これ1枚を貼れば良くなるかも」との念が浮かびましたが、しかし、その念には従いませんでした。

 師父は「よく考えてみてください。脳血栓になった場合、こんなに速くベッドから降りられ、手足も動けるようになるのでしょうか?」 [1] とおっしゃいました。師父の説法から「その脳血栓になった人が因果応報で業を返すため、一生の中で必ずその病気になることを避けられないのだ。例え修煉者になっても、その借りを返さなければならないのだ。しかし、脳血栓のような症状だが、常人の脳血栓とは本質的に違いがあり、残念なことに、その人が師父を信じ切っていなかったのだ」と私は悟りました。

 このことから「人生で因果応報に従って、私の膝が悪くなることは避けられないことなのだ。旧勢力がまだ私の旧い人生の道を按排しており、私のところに業力を投げてきているのだ。そんなことは許さない! 私は師父が按排してくださった修煉の道だけしか歩まないので、脳血栓の人のような考え方をしない。師父が私の体を浄化してくださっていると信じる。私は大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。

 この一念で、翌日には私の膝は治りました。本当に治りました。私は再度、法輪大法の力を体験しました。正念は状態を変えられる鍵だと認識し、修煉に対する信念が一層深まりました。

 また、私は子供を産んでから、以前と比べて腰の調子が悪いと感じていましたが、あまり日常生活に影響しませんでした。時々、腰に対して発正念しましたが、効果はあまり出ませんでした。しかし膝が治った後、腰の症状が重くなったと感じました。朝起きると腰の痛みを感じ、その影響で足にも力が入らないので、一日中忙しくなくても疲労感がありました。

 やがて、腰の痛みが酷くなって耐えられなくなったので、やっとこれを重視し始めました。私は「旧勢力よ、私に師父を信じることや、大法に対しての揺るぎない信念を動揺させたいのか、私がそんな妨害を受け入れると思うのか! 私は何としても師父と大法を堅く信じていく」と念を生じさせました。そして翌朝目が覚めると、なんと腰の痛みが取れて治っていました! とても気分がよくて元気いっぱいになりました。この数年間、悩まされた腰の不調がやっと治り、本当に嬉しかったです。大法の素晴らしさを再度、体験しました。

 この生じた一念が簡単そうに思われるかもしれませんが、私の心の底から発したものです。この一念はまさに正念でした。この生じた一念こそ、この数年の積み重ねの修煉によって出てきたものです。正念を生じることは、そう簡単なことではないと私は思っています。体調が悪くなると、発正念をする必要があると皆さんもよく知っていますが、しかし、発した念は正念だったでしょうか? 正念なのに、なぜ効かなかったのでしょうか? 私は以前にいつも発正念して、体調の悪い症状の背後にある妨害を取り除くようにしていましたが、その目的は苦痛を和らげるためでした。根本から言えば、常人とそれは同じものでした。常人は薬を飲んだり、注射をしたりして、その苦痛を和らげるのですが、私は発正念でその苦痛を緩和しようとしていました。ですから苦を嘗めたくないという目的は、本質的に常人と同じことでした。このような正念は正念と呼ぶことが出来ず、効果がないはずです。

 それでは、本当の正念とは何でしょうか? 私は「正念というのはトラブルが起きたときや体調が悪いとき、あるいは人類社会の一切のことに対して、正確な認識を持つことであり、大法に符合する認識のことである」と理解しています。これは私が長年の修煉を通じて体得し、悟ったものです。トラブルが起きたとき、具合が悪いとき、常人の念と自分が大法の中で悟った法理とが衝突したと感じたら、自分がどう選択するか、どういうふうに正念を探し出し、発するかについて、私たち修煉者はまず冷静になり、自分の一つ一つの念の裏にある目的をみて反省し、自分の不足と自分の執着を探し出すことです。一旦、本当に自分の利己的なところと不足を見つけたら、直ちに直せれば、大法の中で正確な認識を見つけられるし、正念も生じてくるのです。ですから、内に向けて探すことが最も重要で、常人の念から正念に換える唯一の方法だと思います。

 師父が「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」 [1] とおっしゃいました。人間と神の違いはこの簡単な一念の差なのです。また、師父は「念を正しくすれば 悪は直ぐに崩れる」 [2] とおっしゃいました。「正念の威力は大法の威力の体現である」と私は悟りました。

 修煉者の私たちは「現在、体に現れた不調な状態、特に大法弟子が三つのことを行うことに影響するものは、業力の消去ではなく、旧勢力の妨害だ」と皆わかっています。しかし、旧勢力がなぜ、その妨害ができたのか、なぜ、妨害を行うのかについては、私は「その根本的な原因は私たちが大法に対して、正しい信念と、強く信じる程度が標準に達していないからです。例えば、師父に病気を無くすようにとか、不調な状態を無くすようにとお願いして、それが叶ったら、やっと大法を信じるようになる」、このことが原因だと思っています。

 しかし、大法の要求としては大法を堅く信じ、心性を向上させ、問題に対してさらなる高い認識ができてから、やっと体に超常的なことが現れるのです。「本当に自分の体が常人の病気にならないことを信じているのか? 体調が悪いとき、どんな念を出したのか」と自分のことをよく思い出してください。そして深く掘り出してみると、本当に自分がどのくらい師父と大法を信じているのかがわかるでしょう。実をいうと、私たちの体は常人の病気にはならないのですが、自らが向上してきていないので、旧勢力に隙に乗じられて、あたかも病状があるかのようになったのだと思います。というのも、私たちが常人の中にいて、病気の問題に対してまだ常人の認識であれば、邪悪を取り除く功を働かせることが出来ないので、妨害を受けるのだと私は思っています。認識が常人の境地であれば、旧宇宙、旧い法理、旧勢力からの妨害を受けるのです。せんじつめると、認識や心性の向上が出来ていなかったからです。根本的なことは、内に向けて探さないといけません!

 「あなたは功の変化にばかり夢中になって、心性の変化を重んじないかも知れませんが、心性の向上がなければ、全体的な変化はありえません」 [1] と師父はおっしゃいました。もしも、私たちが大法に対する信念が盤石のごとく少しの搖るぎもないのなら、邪悪も妨害をする勇気がなく、恐れて逃げてしまうでしょう。ですから、私たち修練者は大法に対して正しい信念と堅い信念を持つべきです。正しい信念と堅い信念の程度の違いによって、修煉の次元の差になって表れます。

 しかし、どうやって正しい信念と堅い信念の標準に達することができますか? これらの方法は何かというと、私たちが修煉の過程で内に向けて探すことが唯一の方法です。その中で不足を発見し、不足を認め、不足を取り除き、大法の要求に従うことなのです。本当に心から師父を信じれば、一切のことは実に簡単になります。師父を信じることで平然とし、心を動かされないのです。師父を信じることで損失を量ることをしないのです。師父を信じることで、良い事も悪い事も自分を受け入れるべきだとわかるのです。大法は一切の物事を量っており、私たち自身のことをも量ってくださり、そういうふうになっていると私は認識しています。

 さらに、旧勢力の按排を認めないとはどういったことでしょうか? 口だけで認めないというだけでは、認めていないことにはならず、作用をしないことにはなりません。それには大法の標準に従って心性を向上させ、認識を向上させ、常人の認識を取り除けば、旧勢力の按排を求めないことになります。というのは常人の認識とは、常人の観念がみな旧勢力が按排したものなので、それに従えば、旧勢力の按排を認めたことになるでしょう。ですから、肝心なとき、強い正念を発することを選択すれば、旧勢力に対する徹底的な否定になります。しかし時々、正念が主導作用をしていなくても、あきらめないで発していれば、いつか強大な正念を発し、きっと常人の念を捨てる時期が来ると思います。

 この間、私は同じ夢を繰り返し見ました。夢の中でこの家は私のものだとわかっているものの、この家を忘れたような気がしました。次の夢で、この家が私のものだとわかっていても、なぜか他人に住まわれており、私は取り返そうという気持ちでした。昨日の夜の夢では、私は自分の家に帰って掃除し、汚いものをすっかり取り除いていました。心の中でこの数年、私はなぜ、他の人をここに住まわせていたのだろうか、という疑問がありました。この夢から「自分の正念が主導にならなければならず、正念を主導しないと、他の人に主導されることになるのだ」と悟りました。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2]李洪志師父の詩:『洪吟二』「恐れ無し」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/25/412198.html)
 
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