日本明慧

様々な人に真相を伝えるについての会得

中国大法弟子筆

私は様々な人に真相を伝える有効な方法を同修と話し合いたい。

1. 真相を伝える時、「自分は誰なのか」という事を思い起こす必要がある。私達は大法弟子である。人は普通私達の言うことを聞いてくれる(彼等は、皆自分達が最高だと言う、と思っている)。又私達がどのように自分を紹介するかを見る。私達の態度や行動そのものは、言葉よりも大きな影響を人に与える。尊大は態度を見せたり感情的になり過ぎたり、話す時に堅くなったり失礼だったりしたなら、どうして相手が大法を賛美し救済の提供を受け入れることが出来るだろうか。

真相を伝える相手が家族や友人だった場合、私達は感情的になりやすく、この良くない態度がもたらす負の結果は、後程改めようとしても難しい。もちろん友人や家族への慈愛が、多少なりとも愛情と感情への執着と混じりあっていることを知るのは、容易なことである。家族に真相を伝えることは、その他の人に伝えるよりも難しい。ひとつの理由は、私達が日頃の態度に対する注意を怠っていることにある。常人にとって家庭は態度を緩める場所である。外においては私達は普通自分の態度を制限するが、家においては魔性的一面を充分現わす。

殆んどの人は問題に出逢うと、外に原因を捜す。彼等はしばしば自分の欠点を見逃して、他人のに目をつける。私達が修煉者として良く行ったとしても、他の人はそれに気付かないが、もしも私達が良く行わなければ、即座にそれに目をつける。修煉者として私達は高い基準をもち、落着き、善良、寛容、理性を示さなければならない。又口を修めることに注意し、家族に高いレベルの法をたやすく話してはならない。それは彼等が法を得る為の障碍となる。

2. 見知らぬ人に真相を伝える場合、環境や機会の訪れをコントロールするのが難しい。私が(中国に住む修煉者として)会得したのはこうである: 一度に複数の人に真相を伝える場合、常人として話すのが一番良い。そうすれば彼等は身構えることがなく、接近しやすくなる。長時間一緒に居る場合、急いで真相を伝えないで、私達の高尚な態度を通じて、大法修煉者のすばらしさを示すのが良い。もしも彼等の心が大法に対し良くない思いに満ちているなら、私達の立派さを目撃した後、彼等は嘘や宣伝に疑いを持つようになり、真相を伝えやすくなる。

機をつかむことは、真相を伝える好機を見つけることである。実際明智を使えば難しくない。もしも人に出逢ってすぐに真相を伝え始めたなら、人はあなたのことをおかしいんじゃないかと思う。

3. 与える情報の範囲を制限し、しゃべり過ぎることなく真相を伝えなければ ならない。ある修煉者達は真相を伝えるのに長時間しゃべり続ける。まるでその人の気持や心性を考慮することなく、全ての真相を一度に全部知って欲しいかのようである。その人のことを大事に思うのは良いが、うまくコントロールしないと逆効果となる。この人は思うかも知れない、「見てご覧、法輪功はこれ以外何も言うことがない・・・」 だから真相を伝えるにおいては量より質であると、私は思う。ほんの少し話しただけでも、人の心に触れることができる。真相を伝え終わってその人が理解し、質問しない場合、話題を心理的障碍を防ぐことに変えるのが良いかもしれない。


4. 真相を伝える間、大法の厳粛性を維持する。真相を伝えることにより、私達は慈悲を示し、彼等の良心や善良な念を呼び覚まし、救済を提供している。そしてこれらの人々は、自分達の未来を選択する機会を持つことになる。私達は大法を認めてくれるよう頼んでいるのではない。だから私達修煉者は寛容と広い心を示し、又大法の厳粛性を維持しなければならない。堕落した観念から起きた、挑発や敵意ある質問に面した時、私達は威厳をもってそれを指摘して正さなければならない。この用に応じると、彼等は当座は不愉快に思うかもしれないが、後程自分の徳の無さと大法の厳粛さと神聖さに気付くだろう。

5. 異なる人々に異なる方法を用いる。人々の教育レベル、新しい考えを受け入れる能力、彼等の職や興味、そしてその他の理解力を充分考慮しなければならない。職場の主任に真相を伝える場合直接やるのが難しければ、CDや資料等の間接的又その他の様々な方法を用いることが出来る。接近しやすい人や、個人的関係を持つ人には直接話すことが出来る。真相を伝えることは簡単ではない。行うのは、言う程容易ではない。そして言葉と行動の間の差を減らす過程は、実修煉の過程の一つである。

上記は私の個人的理解である。適当でないことは、慈悲をもって指摘して戴きたい。

2002年11月24日