道法に生きる
By Wenhua
【明慧ネット】
最近正念を送る際、私はしばしば雑念
で心が乱れました。過去に起こった様々な事が再度どうして頭に浮かんできたのでしょうか?
大法を紹介することに関係していたり日常生活に関係していたりしました。
どうして私はこうしたことに執着し正念を送るのに影響が出たのでしょうか?
私はそのことについてあまり考えずに、外からの邪魔
だから取り除かなければいうと結論を出しました。
しかし、その次に正念を送った時も私はまだ同じような状態でした。
長い期間私はこのような状態でしたが、或る日突然李先生が先生の詩「道法?に生きる」(李先生の詩集)の中で私達に求めていることを思い出しました。
「見ていない様に見なさいー混乱も誘惑もない。聞いていないように聞きなさいー乱されない心。」
その時初めて日常生活における
自分の心の状態が正しくないということに気がついてショックでした。
私の気持は社会の事に影響されていたのです。
人々はある事に大変注意を払っている人を「とても気持を注いでいる。」といいます。
修行においては、この人は起こっていることに気を入れて心が影響されているというということです。
社会で何をするにしても、私が本当に「見ないように見」、「聞かないように聞く。」という状態にあれば、日常の事はつかの間の霞か雲のようなもので終ってしまえば何も残らないでしょう。
これは無為の状態だと思いますが(何もしない、或いは意図が無いという意味)、この状態にあれば過去に起こった事は正念を送る時に頭に浮かばないでしょう。
反対にもし私が見たり聞いたりした事に大きな注意をはらえば正念を送る時にそうした事が様々なかたちをとって頭に浮かんで邪魔
するでしょう。
これが注意散慢の根本の原因であり平静の無さの現れです。
社会で修行することの困難さは日常の事に気持を動かされないことです。
私達の心が動かされれば考えがふらふらして非修行者の人達と同じ考えになってしまします。そして自分達と非修行者の人達の区別がつかなくなってしまうのです。
私達のしている事は大法を拡げることに関係していますが、明確で清い心を保つ必要があります。私達の考えが非修行者の精神状態と区別がつかなくなると私達の考えはもはや清いものではなくなります。
ですから、法を正すことにおいてはー心が影響されないというだけで全ての状態に対処する事ができるでしょう。(更なる前進のための要点II「最後の執着を取り除く」より。)「転法輪」第9講の「明確で清い心」の中で李先生は繰り返し私達
が清い心を保つことを強調されています。
私達の心が純粋であるほど私達の悟った面がよりよい役割を果たします。
私はこのことは私達の修行におけるより高い要求でさえあると気付きました。
修行の間私達の心は益々平静にならなければなりません。
私達の心性が良くなれば私達の平静さや修行の程度も良くなります。
したがって正念を送ることの内容を良くするためには日常生活における私達の心から始めるべきです。
これは私の理解です。不的確なところを御指摘下さい。 |