日本明慧
■印刷版   

最大なる慈悲をもって衆生を救い済度する(二)


文/中国河北省の大法弟子

(明慧日本)

 二、地元の邪悪の迫害を暴き出す修煉の過程で、人心を取り除く

 地元の協調人の手助けにより、私は幸運にも邪悪の迫害を暴く出すグループに参加することができました。悪人の悪行を初めて暴き出したときは、同修はあまり観念がなかったため効果が良く、不法に連行された同修は、まもなく無条件に釈放されました。その後、同修が連行される事件が発生する度に、邪悪を暴露していましたが、同修たちは歓喜心、闘争心、結果を求める心が生じ、そして共産党文化が入り混じり、「雄大な規模で行い、世人を震撼させる」といったような考えを持ち始め、この迫害は人対人の迫害と思うようになったのです。そのため、釈放されない同修が増えました。

 しかし、悪人らを震え上がらせることはでき、以前のように思うままに迫害できなくなったのです。近隣の県は法輪功修煉者に対する迫害がひどい中、当県は以前の環境よりだいぶ良くなりました。しかし、救出できなかった同修の家族と一部の同修はこのやり方に疑問を持ち始めました。そして同修が連行されたとき、慌てて邪悪を暴露するのではなく、まず悪人らと面と向かって真相を伝えるべきで、最終的な手段として邪悪を暴き出すというのです。そこで私は十分な情報と資料があれば、すぐ邪悪を暴き出すべきだと考え、このようにすれば邪悪の迫害を早急に止めさせることができます。同修たちと、どうすべきかについて数回交流を重ねました。結果としては溝を深め、次回の交流のとき同修は来なくなり、全体の協調、同修の救出や衆生を救い済度することに悪影響を与え、邪悪に乗じる隙を与えてしまいました。

 同修は私の行動に「善」が足りないと指摘し、私の「基点」と「心理状態」が間違っているとヒントを与えてくれました。私は内に向けて探す努力をしました。恐怖心、闘争心、恨む心、自分を実証するなどの心を取り除く努力もしました。恐怖心のため、邪悪の迫害を重く見過ぎていました。迫害を暴露する基点は、衆生を救い済度するのではなく、邪悪を震え上がらせるためだったのです。これが、同修との矛盾まで発生していた根本的な原因です。

 それでは、恐怖心をどのように取り除けばよいのでしょうか? 私は何を恐れていたのかについて自問自答しました。

 私は何度か迫害を受け、自分は生死の念を放下したことができ、師父のご加護の下で、労働教養所から出ることができました。世俗のことについて執着がなく、未練もないと思っていました。必要であれば、私は生命を持って法を守ることができます。しかし、邪悪の迫害に対して強大な正念がなく、なぜ指1本も触れさせない事ができないのでしょうか? この疑問は、私がこの修煉体験を書こうと決め、筆を下ろした瞬間、考えが突然明晰となりました。それは、矛盾と衝突を恐れていたからにありました。警官に連行されようとしたとき、脱出に成功しとこともありました。連行されたとしても師父のご加護の下で、病業という形で釈放されたのです。

 この数年来、関門を乗り越えるたびに自分が正々堂々と正念を持って邪悪要素を解体したのではなく、師父と大法のご加護に頼っていました。ですから、警官とばったり出会ったとき、私は最初の一念で、病業をもって魔難から逃れることを考えていました。このような考えは、数年前であればまだしも、円満成就に向かう大法弟子であり、神が世間にいるように、身体に無数の原子爆弾、中性子爆弾を持っています。法を実証し、衆生を救い済度するのであれば、どのように行っても、師と法のご加護がありますので、何でもできるのではありませんか! 規模が雄大で勢いのすさまじい正法が終ろうとしている中で、私は正法時期の大法弟子として、強い正念をもち、大いに神通力を現し、大法を実証し、衆生済度を行なえなければなりません。これは私がすべきことであり、できることでもあります。なのになぜ、常人の病業という方法で迫害から逃れなければならないのでしょうか? これは自分に対する屈辱ではないでしょうか? 師父の顔に泥を塗るようなものではないでしょうか? 神はこのようにしますか? 認識ができれば病業に頼る執着心を取り除き、これが向上するチャンスなのです。

 同修と問題が発生した中でも、私は「逃避」という方法で対処し、直面しようとしませんでした。同修に事実でないことを言われたときも、説明しようと努力せず、声を出さずに辛抱強く忍耐していました。しかしながら、この「心が動じない」というのは法によって修煉してできたのではなく、説明をすれば修煉者として自分を上手くコントロールできるかどうか分からないし、もし闘争心が現れれば同修と争うことを招いてしまうかもしれません。ですから内に向けて自分を探し、自分の修煉しか考えていませんでした。もちろん、内に向けて探すことは間違いではありません。間違っていたのは、これらの矛盾を利用して自分が人に責められることを恐れ、議論を恐れ、責任を負わされるのを恐れる心を取り除かなかったことです。これらの執着心が取り除かれていなかったため、同様な矛盾が繰り返されたのです。私に恐怖心の根源「逃避」であることを悟らせてくださった師父の按配に感謝いたします。

 師父は次のようにおっしゃいました。「佛性と魔性の問題について、わたしの行なった説明ほど明白なものはありません。 実は、皆さんが乗り越えるところの関はほかでもなく、皆さんの魔性を取り去っているのです! しかし、皆さんはその都度各種の口実をもって、あるいは大法(ダーファ)をもってそれを覆い隠し、心性を向上させることができていませんし、機会をそのたびに逸(いっ)してしまっています。

 皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法(ダーファ)の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させることで、それを取り去っているのです。 皆さんの向上こそ、この上なく重要だからです。

 真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄(きよ)らかな心の状態の下で行うことこそ、最も良いことで、最も神聖なことなのです。」(『精進要旨・再認識』) 師父の経文を読み終えてから、他の空間に存在していた恐怖心、逃避する物質が迅速に解体されたのを感じ、全身が軽やかになりました。そして、今後どうのように矛盾を対処すべきかが分かり、まず内に向けて探し、自分を修める前提の下で、平和的かつ穏やかな態度で同修と交流し合い、いかなる観念も持たずに、同修の修煉を高める心理状態で言えば、同修に傷つけることはないのです。

 長年、私を困惑させてきた恐怖心などの執着心は、この体験文を書いて曝け出したことで、取り除くことができました。私は今後さらなる慈悲をもって邪悪の迫害を暴露し、真相を伝えます。ある同修が言ったように、神のように、魔を照射する鏡を用いて悪人の悪行を暴き出し、醜い姿、邪悪さや愚かさと置かれている危険な境地を知ってもらい、真に佛法の慈悲が身近にいることを感じ取ることができ、迫害に加わるのを早急に止め、理知を持って自分の素晴らしい未来を選択して欲しいのです。そして、私たちが法の中で修煉して出来上がった大いなる慈悲を持って衆生を救い再度しようではありませんか!

 私の学力のレベルは限られており、不適切な表現があれば、慈悲をもってご指摘ください。

 (完)

 2009年9月5日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/4/5/198368.html

■関連文章
最大なる慈悲をもって衆生を救い済度する(一)
衆生を救い済度する基点で考え、新唐人を広める
しっかり学法し、真相を伝え、衆生を救い済度する(二)
神韻のDVDを配って実感したこと
人間になって心身ともに苦しく、大法を修煉して師恩の重みを知る(一)
同修の病業の関を助けて乗り越えた経験
生死の関を乗り越えた経験
洪大な寛容をもってすべてに対処する
偏りすぎないことは、成熟に向かう大事なことである