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自我に対する執着を捨てる


文/オハイオ州の大法弟子

(明慧日本)少し前、ある自我への執着に関する文章を編集しました。私に与えられた文章は私に関係ないわけがなく、すべては修煉の中で障碍を突破するために按排されているとずっと認識しています。自我への執着に関する文章を編集するとき、取り上げられている問題は私自身の修煉にとってとても重要だと意識しています。このため、明慧ネットで同じような文章をもっと重視するようになりました。

 捨てるべき執着心はたくさんあります。例えば、嫉妬心、顕示心、安逸を求める心など。これらの執着心は、いつも自分を常人と見ており、常人の利益を保持したいといつも思っているからです。次に、私がどのようにこれらの執着心を取り除いたかを述べます。

 嫉妬心

 私は非常に良くない偏見があります。ある人に何かいいことがあったら、もしくは認められ奨励されたとき、自分がそうならないと、悲しくなり、その人が私の友人や本当に好きな人でも、嬉しくないのです。もし、誰かが何らかのことで失敗したと分かれば、その人を批判し、少しも慈悲心がないのです。いつも他人の間違いを見るのですが、長所が見えません。内に向かって探さないために、自分の間違いを見つけることができませんでした。

 修煉する前、この偏見に気づきませんでした。なぜなら、当たり前のことになっていたからです。しかし、法を学び、師父が私たちのために語られた嫉妬心の問題について読んでから、ずっと努力して克服しています。嫉妬心を感じたときは、「これは本当の私ではない、よくない物質が私に感じとらせるように迫っている」と心で言います。この考えを阻止するために、よくない物質に「あっちに行きなさい、私にこうしてはいけません、私は大法弟子です」というと、しばらくの間は良くなります。しかし、次回他人が成功するのを見ると、嫉妬心がまた現れます。

 自我への執着に関する文章を読んだ後、なぜ嫉妬心がこんなに容易に現れ、それに気付かないのかはっきり分かりました。文章の作者は嫉妬心が自我への執着に由来すると指摘しています。自我への執着は生活上の利益と奨励は自分に与えられるべきで、他人に与えられるべきではないと思わせます。ですから、他人の成功を見ると、気持ちが良くないのです。この認識は私が共感し、私にとってある程度の向上をもたらしました。自分が完全に嫉妬心を克服したとはいえず、まだ差が大きいのですが、絶えず捨てるように努力し、確かに進歩を遂げていると分かっています。嫉妬心が現れても、容易に捨てることができるようになりました。

 顕示心

 自我への執着を認識したことで、自分の顕示心に気づきやすくなりました。ずっとある問題に悩まされ、いつも自分のやり方で事を進め、いつも他人が自分のやり方に同意しなければならないと思っていました。なぜなら、自分の見方が正しいと思っているからです。こうして他人が賛成しないことを考慮せず、今まで、この問題で他人と摩擦をもたらしていました。もし大法を長年修煉し、こんなにたくさんの自我への執着に関する文章を読んでいなければ、なぜ他人と摩擦が起こるか本当に分からなかったでしょう。

 前回の夏休みの経験で、自我への執着がどんなに弊害があるかを示してくれました。他の州に住む弟に会いに行きました。弟は法輪功をよく知らないので、私が法輪功を修煉することを不思議に思っています。しかし、私は弟の法輪功に対する見方をよく知らないので、できる限り弟を救いたいと思いました。当然、私の考え方は間違っていませんが、やり方と動機は間違っています。それはやはり自我への執着が問題でした。弟に生活には何が必要かと話すとき、自分が弟より物知りで、弟に命令するような感じでした。実際は自分を顕示していたからです。結果は当然、私が想像したことと全く違っていました。弟はとても怒って、私を怒鳴り始めました。私はずっとこのように弟に接しており、弟はこれに飽きていたからだと思っていました。はじめの頃は私もとても怒っていましたが、もう一度考えてみると、自我への執着が原因でこうなったと気づきました。自分の計画通りに進めたくて、弟のことを全く考えず、自分を他人の上に置いているから弟が怒ったのです。

 安逸を求める心

 最後に私はどうやって安逸を求める心を克服したかを述べます。ある時やるべきだと分かっている大法の仕事をしようとしませんでした。なぜなら自分に気を配れず、多くのことが心地よくないからです。数日前、とても震撼する出来事が起こりました。

 地元の図書館前に煉功場所があり、いつもほかの同修より早く着きます。ある朝、とても冷えこんで、着ていた服は薄く身体が暖かくなりませんでした。私は法輪功を紹介するパネルを車に積んで運んできて、すぐにおろして展示しました。しかし、寒いので暖かい車の中で同修が来るのを待つことに決めました。しばらく時間が経ち、少し不安に思いました。身体の安逸を求める心を突破しようと努力して、新しい学習者を探そうと思いました。もし自分が車の中にいるなら、誰も私とパネルを見ることができません。10分から15分待つと他の同修が来るのですが、車の中はとても気持ち良いのです。しかし、縁のある人がその間に通り過ぎていくかもしれません。もし、私が彼らにこの機会を与えなかったら、永遠に機会を失うかもしれません。

 こうして自分と葛藤し、最後に車から降りることに決めました。車から降り、パネルを人々が見やすい場所に置きました。2分も経たないうち、見知らぬ人が歩いてきて、パネルをみて「私も学べますか?」と質問しました。私はやっと分かりました。もし自我と安逸を求める心を突破し、心を正すならば、すべてのことがこんなに容易になり、師父が私たちを手伝ってくださるので、すべてのことが可能になります。

 (2009年アメリカ中部法会の体験発表)

  2009年10月14日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/30/209278.html

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