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皆で水を注いで蓮の花を満開にしよう


文/中国の大法弟子

(明慧日本)多くの大法弟子は明慧ネットへの投稿について、あまり重視していないと思います。大法弟子は次のような誤った認識を持っているのではないでしょうか? 自分は文章を書く能力がない、法に対する認識が低い、書くことがないなどです。私自身もそう思っていましたので、いつもその次元の認識に留まって徘徊していまい、自己を高めるチャンスを失っていました。後になって明慧ネットで同修の投稿した文章をよく読んでいくうち、私の今の状態はどの執着心が作用しているのか、師父の法に適しているのか、と内に向けて探しました。そして執着心の根源は「私」にあり、得ることだけを考えて、自分から何か行いたいという気持ちがないからでした。もう一つの執着心は「怠惰」にありました。安逸心を求め、人間の惰性が現れるのです。これらの執着心は大法弟子として、修煉によって取り除くべきなのに対し、私は今まで察知することさえもできませんでした。

  グループで法を学んで煉功することと、修煉体験交流会は、師父が弟子たちに切り開いてくださった修煉方式であり、大法弟子もこのように歩んできました。大法弟子が交流会に参加することは自分を高める要であることもよく知っています。「7.20」以前のような良い修煉環境の下で、私たち大法弟子は定期的にまたは不定期にいろいろな形の法会に参加しました。「7.20」以降、邪悪のあのような残酷な迫害の下でも、中国にいる大法弟子は依然として環境を整えて法会を開き、同修たちの修煉体験を交流してきました。なぜあのような厳しい環境の中で法会を開くのか、それは師父が按排してくださった修煉形式であり、弟子たちは堅実に歩まなければならないことを理解していたからです。

  『明慧ネット十周年法会での説法』を勉強して分かったことですが、明慧ネットに投稿するということは、邪悪を暴露して解体し、消滅する過程でもあります。同時に、明慧ネットと協力し合って衆生を救う過程なのです。中国では邪悪の残酷な迫害に直面していたとき、明慧ネットは大法弟子に交流の窓を開き、中国にいる大法弟子の全体の昇華、邪悪の迫害を暴露する重要な窓口になったのです。私たちは一体であり、大法の中の一粒子なので、すべての大法弟子が明慧ネットに関心をもち、積極的に参加する義務と責任があるのです。私たちの勤勉さと汗の水を、この美しい神聖な純潔さを持つ蓮の花(明慧ネット)に注ぎ、育成して行けば明慧ネットは蓮の花のように美しく満開になるのです。

  実のところ、明慧ネットへの投稿はそれほど難しくなく、ただ大法弟子は常人と違って法に対する認識という問題が存在しますが、すべては師父がしてくださっていることを忘れないでください。正法と同じように私たちが衆生を救いたいという願望があれば、師父の法身が手助けしてくださるのです。人間の力は限られており、もし一つのことに対して常人の思惟で考えてしまえば、あなたは常人の理に制約され、優柔不断になり、後天に形成したねじれた共産党文化に左右されるのです。

  例を一つ挙げましよう。グループで法を学び、あなたは悟った法理を同修と交流したとき、そのときのあなたの状態を思い出してください、あなたの考え(思惟)は単純で、話した法理は修煉者としての状態で話していました。

  私ごとで言えば、学力のレベルが低い、能力がない、形のうえでは高卒となっていますが、学生のころはちょうど「文化大革命」の時期と重なり、10年という混乱の中で勉強する環境がなく、何も学ぶことができなかったのです。今は50歳を過ぎており、思惟活動が鈍くなり、文章の構成についての決まりも分からなくなったのですが、このような私でも法理を悟ってからは積極的に明慧ネットに投稿するようになり、ほとんど掲載されています。これは私が精進するようにと、師父が私に与えられた激励だと思っています。そのほかに、私に足りないものを多くの同修が補ってくれていることも分かっています。明慧ネットに掲載された自分の文章を見たとき、心の中で人間の思惟と言葉では表現できないものが生まれるのです。

  この文章を書くことを通して、法は博大で奥深く、できないものはないということを十分に体験することができました。文章の構成から、起稿、文章構成の過程までは、法に照らして正しく真実の文章を残し、不適切な偽りの文章を取り除く過程であり、自分の修煉を充実させ、高める過程でもあります。文章を書くときは学歴の高低は関係なく、しかも私たちは常人の文章を書くのではなく、法理に対する認識の上に立って、返本帰真するための描写であり、常人の思惟を超えた修煉者としての境地の体現です。同修が明慧ネットに投稿した文章を読むとき、どのような内容の文章も、文法や語句は決して華麗ではないかもしれません。中には60歳、70歳の学校に通ったことのない年配者が書いた文章もあります。しかし、その文章は人の心を深く感動させ、感激の涙を流さずにいられません。その文章に書かれている内容は、心から発せられた真実であり、人の心と心を通わせ、一つひとつの言葉が慈悲にあふれ、その人のいる次元での法に対する理解なのです。

  最後に、同修たちに明慧ネットへの投稿を重視し、常人の観念を取り除き、残されたわずかな時間に勇気を持ってペンを取り、共に美しい神聖な蓮の花(明慧ネット)に水を注ぎ、育成していきましよう!

  2009年10月30日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/10/22/210852.html

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